メリークリスマース! おはようございます。一の太刀です。
本日は12月25日クリスマスです。
昨夜のイブはいかがお過ごしでしたでしょうか。私は家族団らん幸せに感謝します。
日本にクリスマスが定着したのは明治後期だそうです。結構昔ですね。しかしながら私はもはやワクワクもドキドキも信仰もございません。ただの行事としてしかないこの日ではありますが、昔は都合の良い様に利用させていただきました。楽しかったな~。
そんなクリスマスですが、少し「剣道」との関連性のある様なものを調べてみました。
「小野派一刀流」笹森家は牧師さん
クリスマス→キリスト教→カトリックorプロテスタント
この流れでみると剣道に近しいものとしては小野派一刀流の笹森家は代々クリスチャンの家系とか。
こちらの道場の「禮楽堂」は「駒場エデン教会」としても活動しているようです。
クリスマスをお祝いしないプロテスタント教会もあるようですが、こちらは「クリスマス合同礼拝」なるものを主催されているようです。
私の師匠も小野派一刀流
また、小野派一刀流の「切り落とし」は現代剣道でも奥義に近いものとして位置づけられているように感じます。
しかしそれだけのものとして見られているだけあって、技が高度すぎてまったく理解不能ですね。
「相手の面打ちをこちらの面打ちですり込みながら中心線を外してしまい、そのまま面を捕らえる」この様な技かと思います。
難し過ぎますね。
呼吸や間合い、技のすべてをそろえていなければ、およそ成功しそうにありません。
キリスト教の教えの一端でもわかれば少しはその精神を理解しやすくなるのでしょうか。
武士道とキリスト教
笹森建美先生の著書で「武士道とキリスト教」というものがあります。
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私はまだ読んでないのですが、「キリスト教は「切腹」を認めるか、武士道に「愛」はあるか」という項目があるようです。
たしかキリスト教は「自害」を認めておらず、日本にはもともと「愛の概念」がなかったはずです。愛はキリスト教によって明治以降普及した言葉と聞いています。
これは興味あります。機会を作りぜひ読んでみたい本の一つです。
【追記】小野派一刀流第17代宗家 笹森建美氏 死去
2017年8月15日に笹森先生は天に召されました。
安らかな眠りにつかれますよう、心よりお祈り申し上げます。
おわりに 無思想の思想
キリスト教と剣道ではあまり共通点は多くないと思います。
私は基本的には「神道」を意識して生活をしていますが、クリスマスはあまりに日本に定着しすぎているので、つい便乗してしまいます。
そんなんでいいのか日本人!!と思いながらも「あわてんぼーのーサンタクロース♪」と調子よく歌ってしまうところが日本の良さかもしれません。
作家の司馬遼太郎はそんな日本人の感覚を「無思想の思想」と表現しました。
「全てを受け入れる」
剣道にも通じるものかも?しれません。
ではまた!
コメント
先ずは優勝おめでとうございました。
現代社会において人口から考察すれば現代剣道は剣術の代表と言い得る存在となりました。
あらゆる事柄に言えますが、剣術は特に自分自身との禅問答のような時間が多いのではないでしょうか。
最初に基本を身に付けるために量を熟し、基本が身に付けば質を求め、質が高まれば高めた質が基本になるように量を熟し、再び更なる高みの質を求める、生きている間は終わりのない繰り返しです。
その過程で常に自分の動作と心に自問自答を繰り返し試行錯誤し時間を費やす姿は恰も修行僧さながらです。
そうしている間に得られた感覚のみ心身に存在させ他は無にした状態が、珠玉の一撃を生むと信じています。
剣術の修行の苦しみ楽しみを毎日このように感じている自分としては、剣禅一致をそのような感覚で捉えています。
今回は概念的な事を書きました。
打突主体剣術と斬撃主体剣術で違いはありますが、どちらも剣術であることに変わりはありません。
お互いに何でもござれの精神で、それぞれの高みを目指しましょう。
剣術家様
またも奥深いコメント、誠にありがとうございます!
修行に終わりはありませんね!
「珠玉の一撃」とは、どの様なものか想像するにも難しいですが
いつか体現できればと、ぜひ目指していきたいところです。
神奈川の宮崎正裕先生は
「私は刀の時代を知らないし、木刀で試合をやったことも無い。それなら竹刀は刀とは違うと答えるしかない・・・。」
とインタビューに答えたことがありました。
私は「剣道のあり方」にジレンマと葛藤を持ちながら日々過ごしてはおりますが、
とりあえず現在は、「剣道の試合に勝つ」ことに少し重きをおいて稽古しています。
ともあれ今後ともよろしくお願いします。